九十歳。何がめでたい (佐藤愛子)
昔の日本はもっと情があった。今は観念で生きている。そういうことがあちこちに散りばめられているエッセイだった。
昔の日本は知らないが、もっと人間関係が実感として繋がっていたのだろうと思う。だからこそ、最後の一歩を踏み出すのを躊躇い、踏みとどまれたことも多かったのではないかと感じた。
【蜂のキモチ】
“ただ一つわかることは、生きものはすべて、人間に利用されるために生れているわけではない、ということである。”
本当にまさしくその通りとしか言いようがない。人間にとって邪魔だとか役に立たないとか、そういう目線でしか物事を見ていない自分に改めて気づかされた。
【一億論評時代】
サザエさんの感想についてのエッセイ。
マンガは教科書ではなく、人間を論評する場でもなく、ただ笑うためのものなのに、そこから教訓を得ようとする人々に呆れ、もどかしさを感じている筆者の思いが迸っている。
“感心している場合か。ここは笑うところだ。なぜ笑わない!笑わずに感心するとはマンガに対する侮辱ではないか!しっかりせえ、と私は怒りたくなった”
今の時代、ありとあらゆるものから何かを得ようともがいている気がする。
私たちはただ無邪気に楽しみ笑うことを忘れてしまってはいないか。そんなことをふと思った。
華僑流おカネと人生の管理術 (宋文洲)
概要
2011年5月に初版発行。
【はじめに】
"困難な状況の中でも生き抜く華僑のノウハウを皆さんに紹介していきます"
【プロローグ】
"本書では、そんな華僑のノウハウの一端を、宋文洲という一人の人間の体験を通した形ではありますが、できる限り伝えていきたいと思います"
とあるように、華僑ならどうするかを自分の体験談や伝聞、考え方を基に書かれている本だ。
感想
読み終わってまず最初に思ったのが、「タイトルが壮大すぎたな」、ということだ。
華僑とは、みたいな大きな話を期待して読むと期待外れになる。
あくまでも1華僑である筆者の話であり、華僑全体としてどうなのかという話ではなかった。
そういうものを期待して読んでいたので、あれ?と肩透かしをくらった気持ちだ。
【はじめに】に華僑のノウハウを紹介するとあったために誤解してしまった。
勝手に期待することの弊害を教えてくれたとも言える。
でも、勝手に期待さえしていなければ、知っているけれども改めてそうだな、と感じることが沢山ある本で読んでよかったと思う。
知っているがつい忘れがちになることを改めて思い出させてくれる本だった。
ものすごく目新しいことが書かれているわけではないが、今の自分を振り返るのにちょうどよかったと思う。
次のステージに行く前やちょっと難しそうな戦いの前に装備の点検をする感じを思い出した。
生き残る力の大切さ
"たとえ悪い偶然に遭遇したとしても、それらを受け入れ、挫折を挫折で終わらせずに。次へと進んでいく力。それこそが、「生き残る力」です。"(p24)
この生き残る力を華僑は日々磨いている。
そして、自国であってもこの「生き残る力」を磨いていくことは大事だと思った。
今の時代、転職がどんどん当たり前になり、会社もいつなくなるかわからない、公務員であっても安泰とは限らない、本当に何があるかわからない時代には「生き残る」ことこそが大事なのではないか。
年齢を重ねるごとに生きることが少しずつ楽になっていったのは、挫折を味わいそこから立ち上がってきた経験によって「生き残る力」が少しずつ磨かれていったからかもしれないと思う。
失敗を失敗として終わらせるのではなく、そこから何かを得ることで経験として蓄積できれば、人生がもっと豊かになる気がする。
自分にとっての”小瓶”
そして、"小瓶"の存在は、日本で生きていても、外国で生きていても必要だろうなと感じた。
"小瓶"は心の基地。筆者は家族や宗教、友人などを例に挙げていたが、趣味なども"小瓶"になり得ると思う。
そこに入り、蓋を閉めてしまえば心の平安が保たれる場所。
一つでなくてもいいと思う。むしろ複数ある方がいいのではないか?
自分にとっての"小瓶"とは何か?を考えるいい機会になった。
老残のたしなみ 日々是上機嫌 (佐藤愛子)
佐藤愛子さんのエッセイ集。
2000年3月に刊行されたものだが、初出一覧を見ると1994年から1999年に出されている。
今から20年以上前のものだが、この頃問題だったことが今はもっと深刻になってきているように思う。
例えば、目先の問題をとりあえず解決させるための解決策が別の問題を発生させる。しかしその解決は先送りすることは、よくあることではないだろうか。
先のことを心配しすぎるのはよくないが、何も考えないのも問題だと思った。
【年寄りの心配】
"一つの不都合を抑えれば次の不都合が生じることを我々は色々な面で経験させられてきたではないか"
”「当面の問題」で頭が一杯になって、先のことを考えるゆとりを失うとモトも子もなくすのである。"
よく考えること。
常日頃から考えることを習慣づけたい。
でも、考えることと分析することは違う。
分析し続けていると、無機質な人間へと変質してしまうことを筆者は憂いている。
この頃よりもずっと、私たちはあらゆる問題を分析し評論し、
しかしながら自分の問題として謙虚に受け止めることをやめてしまったように思う。
これは私自身にも言えることだ。
畏れるべきものを畏れ、謙虚であることを忘れずにいたいと思った。
【いいたくないがいわねばならぬ】
”突然、向こうから剣が飛んでくる。それに対して腰の刀を抜く手も見せず、丁と切り結ぶのは平素の修練の力である。修練のない者は突き刺されるか、逃げまどうしかない。”
”思考の短絡、牽強附会が社会に渦巻いている。少し沈黙して深く静かに考えようじゃないか。討論会じゃないのだから、とっさに意見をいわなければならないということはないのだ。よく考えずに目先の現象とそこいらに転がっている概念を簡単に拾って繋げばいいというものではないのだ。”
”問題は怖れるべきことを怖れず、泣くべきを泣かず、怒るべきを怒らない無機質な人間へと日本人が変質しつつあることだ。”
”人権人道の大合唱に加わっているうちに、人道とは何かを考えることを忘れ、形だけの人道をふりかざして人道家ぶるという矛盾に気がつくべきではないか。”
北斎の罪 (高橋克彦)
表題作含む伝奇、SF、ホラーの7つの短編集である。
各短編はそれぞれ独立して話だが繋がっている。
「鏡台」は短い話だが、じわじわと怖い。
鏡台を天眼鏡で見ることで化け物たちの世界が見える。
ちなみに天眼鏡とは、
「《人相見が使って、運命など普通には見えないものまでも見通すところから》柄のついた大形の凸レンズ。」
のことである。
見えないものまでも見通せるレンズで鏡を覗き込む。
想像しただけで怖い。
”腕がたった二本しかない人間に取り囲まれて暮らすなんて・・・”という恐怖に取りつかれた「私」。
当たり前であることが恐怖になる得ること、他人にはその変化が見えないこと、色んな要素が怖かった。
表題作の「北斎の罪」は、面白かった。